古葉竹識の現在は?広島初優勝と赤ヘル野球、死去までの軌跡を徹底解説
古葉竹識(こば・たけし)さんは、広島東洋カープを球団史上初のセ・リーグ優勝に導き、その後の黄金時代を築いたプロ野球界の名将です。監督として広島をリーグ優勝4回、日本シリーズ制覇3回に導き、「赤ヘル野球」と呼ばれる機動力を生かした戦術を確立しました。
2026年現在、古葉竹識さんはすでに亡くなっています。2021年11月12日に85歳で死去し、死因は公表されていません。選手時代には南海ホークスでもプレーし、盗塁王を2度獲得。広島退団後は大洋ホエールズや東京国際大学でも指導者として活動しました。その生涯を選手成績、監督実績、経歴年表から振り返ります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 読み方:古葉竹識は「こば・たけし」。登録名が古葉毅だった時期もあります。
- 監督実績:広島をリーグ優勝4回、日本一3回に導き、1975年に球団初優勝を達成しました。
- 選手成績:通算1369安打、263盗塁。1964年と1968年に盗塁王を獲得しています。
- 大洋監督時代:1987~1989年に横浜大洋ホエールズを指揮しました。
- 現在:2021年11月12日に85歳で死去。死因は公表されていません。
【古葉竹識の現在】2021年に死去、死因は公表されている?
古葉竹識さんは、2021年11月12日に85歳で亡くなりました。広島東洋カープの黄金時代を築いた指導者の訃報は、プロ野球界だけでなく、長年カープを応援してきたファンにも大きな衝撃を与えました。
2021年11月16日、古葉さんの長男が広島球団を通じて訃報を発表しました。葬儀・告別式は近親者で執り行われています。翌17日には各報道機関が死去を伝えました。
死因について公表された情報
気になる死因については、当時の報道で「死因は明らかにしていない」と伝えられています。
つまり、2026年現在も、広く確認できる公表情報から特定の病名や死亡原因を断定することはできません。病気によるものだったのか、具体的にどのような療養生活を送っていたのかといった詳細も、公式に明らかにされていません。
山陰中央新報やスポーツニッポンなどの訃報記事でも、85歳での死去と家族による発表が報じられています。死因については非公表という扱いです。
2026年現在、古葉竹識は何をしている?
古葉さんは亡くなっているため、現在は野球チームの監督や指導者として活動していません。
晩年には東京国際大学野球部の監督を務め、大学野球の発展にも力を注いでいました。2008年に監督に就任し、2011年にはチームを東京新大学野球連盟の初優勝に導いています。
2016年には監督を退任しました。その後も野球界に大きな足跡を残した人物として、その指導実績が語り継がれています。
現在の古葉さんを知るうえでは、現役時代の記録だけでなく、広島での監督生活や大学野球への貢献まで含めて評価する必要があります。
【読み方・プロフィール】古葉毅という旧登録名でプレーした選手時代
古葉竹識の読み方は「こば・たけし」です。1936年4月22日、熊本県に生まれました。
プロ野球選手としてのキャリアは、社会人野球の日鉄二瀬を経て1958年に広島カープへ入団したところから始まります。主なポジションは遊撃手と二塁手。右投右打の内野手として活躍しました。
実は、プロ入り当初から現在知られている「古葉竹識」という名前で登録されていたわけではありません。
古葉毅から古葉竹識へ
古葉さんは、1958年から1963年まで「古葉毅」という登録名でプレーしていました。その後、登録名を古葉竹識に変更しています。
そのため、古い野球記録や当時の資料を調べると「古葉毅」という名前が登場することがあります。別人ではなく、同一人物です。
選手としての特徴は、俊足と堅実な守備でした。特に盗塁能力は高く、1960年代のセ・リーグを代表する走れる内野手の一人として知られています。
基本プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 古葉竹識 |
| 読み方 | こば・たけし |
| 生年月日 | 1936年4月22日 |
| 出身地 | 熊本県 |
| 没年月日 | 2021年11月12日 |
| 享年 | 85歳 |
| 出身高校 | 熊本県立済々黌高校 |
| 大学 | 専修大学(中退) |
| 社会人野球 | 日鉄二瀬 |
| 投打 | 右投右打 |
| 主なポジション | 遊撃手・二塁手 |
| 旧登録名 | 古葉毅 |
| 野球殿堂入り | 1999年 |
プロフィールや通算成績は、野球殿堂博物館および日本野球機構(NPB)の選手記録に掲載されています。
【古葉竹識の経歴年表】広島の初優勝から日本一3回まで
古葉さんのキャリアを理解するうえで欠かせないのが、選手からコーチ、そして監督へと立場を変えていった経緯です。
特に1975年は、古葉さん本人にとっても広島球団にとっても大きな転換点でした。シーズン途中で監督に就任し、球団創設以来初となるリーグ優勝を成し遂げたからです。
古葉竹識の主要経歴年表
| 年代 | 所属・出来事 | 主な実績 |
|---|---|---|
| 1936年 | 熊本県で誕生 | 4月22日生まれ |
| 1958年 | 広島カープ入団 | 登録名は古葉毅 |
| 1964年 | 広島でプレー | 57盗塁で盗塁王 |
| 1968年 | 広島でプレー | 39盗塁で2度目の盗塁王 |
| 1970年 | 南海ホークスへ移籍 | 1971年まで選手として在籍 |
| 1972年 | 南海でコーチ | 指導者としての経験を積む |
| 1975年 | 広島監督に就任 | 球団初のリーグ優勝 |
| 1979年・1980年 | 広島監督 | 2年連続日本一 |
| 1984年 | 広島監督 | 3度目の日本一 |
| 1985年 | 広島監督退任 | 11年間の監督生活に区切り |
| 1987~1989年 | 横浜大洋監督 | 3シーズン指揮 |
| 1999年 | 野球殿堂入り | 競技者表彰 |
| 2008年 | 東京国際大学監督就任 | 大学野球の指導に携わる |
| 2011年 | 東京国際大学 | リーグ初優勝、大学選手権4強 |
| 2021年 | 死去 | 11月12日、85歳 |
この年表の中心にあるのが、広島監督時代の11年間です。野球殿堂博物館の公式記録によると、古葉さんは広島を4度のリーグ優勝、3度の日本シリーズ制覇に導きました。
1975年、広島カープ初優勝の歴史的な意味
1975年の広島は、開幕からジョー・ルーツ監督が率いていました。しかし、ルーツ監督はシーズン序盤に退団。その後、守備コーチを務めていた古葉さんが監督を引き継ぎます。
監督就任日は1975年5月4日です。当時39歳だった古葉さんは、シーズン途中からチームを立て直し、球団創設26年目で初めてのセ・リーグ優勝を達成しました。
この優勝によって、広島は長年の低迷から抜け出し、全国的な注目を集める球団へと変わっていきます。
ただし、1975年の日本シリーズでは阪急ブレーブスに敗れ、初の日本一には届きませんでした。広島が初めて日本シリーズを制したのは1979年です。
この違いは重要です。1975年は球団初のリーグ優勝、1979年は球団初の日本一という、別々の歴史的な出来事でした。
【赤ヘル野球の正体】古葉竹識が広島黄金時代を築けた理由
古葉竹識さんの名前と切り離せない言葉が「赤ヘル野球」です。
これは単に赤いヘルメットを着用したチームという意味ではありません。走塁、守備、投手力、選手起用を組み合わせ、少ない得点でも勝利をつかむ戦略的な野球を指します。
赤ヘル野球は古葉監督だけが作ったものではない
赤ヘル野球の歴史を語る際、ジョー・ルーツ監督の存在も忘れてはいけません。
1975年に広島の監督となったルーツは、チームカラーを赤に変更し、選手の意識改革や待遇改善にも取り組みました。赤いヘルメットを含めたチームの新しいイメージを打ち出したのは、この時期です。
しかし、ルーツは開幕後まもなく退団。後任の古葉さんが、その改革の土台を受け継ぎ、戦術面とチーム編成を成熟させていきました。
つまり、赤ヘル軍団の誕生にはルーツの改革があり、黄金時代の確立には古葉さんの指導力があったという関係です。
機動力野球と緻密なチーム戦略
古葉監督の野球を特徴づけたのは、積極的な走塁と堅実な守備です。
長打だけに頼らず、出塁した選手を次の塁へ進め、相手守備にプレッシャーをかける。こうした機動力野球によって、1点を取りにいく攻撃を重視しました。
さらに、打線の主力だけに依存しない選手起用も特徴でした。高橋慶彦、山崎隆造、正田耕三らのスイッチヒッターを育て、山本浩二や衣笠祥雄といった中心選手を軸に、攻撃と守備のバランスを整えました。
投手陣についても、先発・中継ぎ・抑えの役割を明確にし、北別府学、大野豊、江夏豊らを含む投手陣を組み合わせて戦いました。
週刊ベースボールの古葉さんに関する特集記事でも、堅い守備と主力打者まで走れる機動力、投手陣の整備が黄金時代を支えた要素として紹介されています。
「耐えて勝つ」という指導哲学
古葉さんの指導哲学を表す言葉として知られるのが「耐えて勝つ」です。
この言葉には、目先の結果だけにとらわれず、厳しい練習やチームの課題克服を積み重ねて勝利を目指す姿勢が表れています。
実際、古葉さんはキャンプでの猛練習を重視し、他球団との戦力比較や選手の適性を踏まえたチーム作りを進めました。
一方で、単に練習量を増やすだけではありません。スイッチヒッターの育成、守備固めを含めた役割分担、将来を見据えた投手補強など、組織全体を強くする取り組みを続けました。
「言いたいことを言って、やりたいことをやって、悔いのないようにしよう」
この言葉は、週刊ベースボールが紹介した古葉さんの指導者としての信念に関する記述です。現状を分析し、必要な改善を実行する姿勢が、長期政権を支えた背景にありました。
広島のリーグ優勝4回・日本一3回の内訳
古葉監督が広島で達成したリーグ優勝は、1975年、1979年、1980年、1984年の4回です。
そのうち日本シリーズを制したのは1979年、1980年、1984年。特に1979年と1980年は2年連続日本一という快挙でした。
1975年の初優勝から4年後に初の日本一を実現し、1984年には阪急を破って3度目の日本一を達成しています。広島の黄金時代を象徴する実績です。
【古葉竹識の選手成績】南海ホークス時代と2度の盗塁王
監督としての実績があまりにも有名な古葉さんですが、現役選手としても優れた記録を残しています。
特に注目したいのが、盗塁能力です。俊足を生かした走塁は、後年の監督時代に機動力野球を重視する姿勢にもつながる特徴でした。
1964年と1968年に盗塁王を獲得
古葉さんは1964年に57盗塁を記録し、セ・リーグ盗塁王に輝きました。
さらに1968年にも39盗塁を記録し、2度目の盗塁王を獲得しています。
野球殿堂博物館の記録では、盗塁王の獲得年は1964年と1968年。1963年には遊撃手としてベストナインにも選ばれています。
NPB公式記録に見る通算成績
日本野球機構の個人年度別成績と野球殿堂博物館の記録によると、古葉さんのプロ通算成績は次のとおりです。
| 成績項目 | 記録 |
|---|---|
| 出場試合 | 1,501試合 |
| 打数 | 5,427 |
| 安打 | 1,369 |
| 本塁打 | 44 |
| 打点 | 334 |
| 盗塁 | 263 |
| 打率 | .252 |
| 盗塁王 | 2回 |
| ベストナイン | 1回 |
出典は日本野球機構の個人年度別成績および野球殿堂博物館です。
この数字から分かるのは、古葉さんが長打力を中心とする打者ではなく、出塁や走塁、守備を通じてチームに貢献する内野手だったということです。
南海ホークスへの移籍と現役引退
1970年、古葉さんは広島から南海ホークスへ移籍しました。南海では1971年まで選手としてプレーし、その後現役を引退しています。
引退後は南海で守備・走塁コーチなどを経験しました。ここで野村克也監督の下で指導者としての経験を積んだことも、その後のキャリアにおける重要な転機です。
1974年には広島にコーチとして復帰し、翌1975年には監督へ昇格。選手として培った走塁や守備の感覚と、コーチ時代に学んだチーム運営の経験が、広島の黄金時代につながっていきました。
【大洋ホエールズ監督時代と野球殿堂入り】広島退任後の活動
広島で大きな実績を残した古葉さんは、1985年限りで監督を退任しました。しかし、プロ野球の指導者としての活動は終わりませんでした。
1987~1989年、大洋ホエールズを指揮
1987年から1989年まで、古葉さんは横浜大洋ホエールズの監督を務めました。
現在の横浜DeNAベイスターズにつながる球団で、3シーズンにわたって指揮を執りました。
ただし、広島時代と同じような優勝実績を残したわけではありません。大洋ではリーグ優勝を達成できず、広島での黄金時代とは異なる結果となりました。
この時期は、古葉さんの指導者としてのキャリアを評価するうえで、成功だけでなく球団ごとの戦力や環境の違いも考える必要があることを示しています。
1999年に野球殿堂入り
古葉さんは1999年、野球殿堂の競技者表彰で殿堂入りしました。
野球殿堂博物館の紹介では、広島の黄金時代を築いた名監督として、その功績が評価されています。
選手時代の盗塁王2回、ベストナイン1回に加え、監督としての広島リーグ優勝4回、日本シリーズ制覇3回という実績が、殿堂入りを裏付ける大きな功績です。
なお、野球殿堂博物館が掲載する監督通算勝利数は873勝です。報道で紹介された通算成績は873勝791敗137分けとなっています。
東京国際大学野球部で後進を育成
古葉さんはプロ野球界を離れた後も、大学野球の指導に携わりました。
2008年4月、東京国際大学野球部の監督に就任。プロ野球で培ったチーム作りの経験を大学生の育成に生かしました。
その成果が表れたのが2011年です。東京新大学野球の春季リーグでチームを初優勝に導き、全日本大学野球選手権大会でもベスト4に進出しました。
2016年1月には監督退任が報じられています。プロ野球の名将が大学野球でも結果を残したことは、古葉さんの指導者としての幅広さを示すエピソードです。
【古葉竹識に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:古葉竹識の読み方は何ですか? A1:読み方は「こば・たけし」です。以前は古葉毅という登録名でプレーしていました。
Q2:古葉竹識は現在も存命ですか? A2:いいえ。2021年11月12日に85歳で亡くなっています。2026年現在、存命ではありません。
Q3:古葉竹識の死因は何ですか? A3:死因は公表されていません。2021年11月の訃報では、長男が広島球団を通じて死去を発表し、死因は明らかにされていないと報じられました。
Q4:古葉竹識は広島を何回優勝させましたか? A4:監督在任中にセ・リーグ優勝4回、日本シリーズ制覇3回を達成しました。リーグ優勝は1975年、1979年、1980年、1984年です。
Q5:古葉竹識は選手時代にどのような成績を残しましたか? A5:通算1,501試合に出場し、1,369安打、44本塁打、334打点、263盗塁、打率.252を記録しました。盗塁王は1964年と1968年の2回です。
Q6:古葉毅と古葉竹識は別人ですか? A6:別人ではありません。古葉さんが1958年から1963年まで使用していた旧登録名が古葉毅です。
Q7:古葉竹識は大洋ホエールズでも監督を務めましたか? A7:はい。1987年から1989年まで横浜大洋ホエールズの監督を務めました。広島時代とは異なり、リーグ優勝は達成していません。
Q8:古葉竹識は野球殿堂入りしていますか? A8:はい。1999年に競技者表彰で野球殿堂入りしました。
Q9:古葉竹識は東京国際大学でも監督をしていたのですか? A9:はい。2008年に監督に就任し、2011年にはチームを初のリーグ優勝と全日本大学野球選手権ベスト4に導きました。2016年に監督を退任しています。
まとめ:古葉竹識が日本プロ野球に残した功績
古葉竹識さんは、選手として盗塁王を2度獲得し、指導者として広島東洋カープの黄金時代を築いた人物です。
特に1975年の球団初優勝は、広島の歴史を変えた出来事でした。その後も1979年、1980年、1984年にリーグ優勝を果たし、3度の日本一を達成。機動力野球、堅実な守備、投手陣の整備を組み合わせた赤ヘル野球を成熟させました。
広島退任後も大洋ホエールズや東京国際大学で指導者として活動し、1999年には野球殿堂入りを果たしています。
2021年11月12日に85歳で亡くなり、2026年現在は故人です。死因は公表されていません。
古葉さんの功績を理解するうえで押さえておきたいのは、1975年のリーグ初優勝と1979年の初日本一を区別すること、そして赤ヘル野球をルーツ監督の改革と古葉監督のチーム作りの両面から捉えることです。
単に優勝回数が多い監督というだけではありません。戦力の弱点を見極め、選手の役割を明確にし、組織として勝てるチームを作ったことこそ、古葉竹識という名将が日本プロ野球に残した大きな財産です。 (出典: 古 葉 竹 識(Yahoo!ニュース))